と言う訳で、構想1年半、準備数日、今更ながら、いよいよメルマガ始めちゃいます。
そして「桃色バケツ倶楽部」を立ち上げようと思います。
メルマガ1通目、どんなのにするか、かなり前に書いていたのですが、ちょっと筆を入れてみましたので、まずここに載せておきます。
このメルマガでは、中学まで北海道の森・川・海に囲まれて育ち、30代の東京勤務で都会生活にヤラれたのか心を患い、再び北海道の自然に癒やされてゆっくり回復、サラリーマンを続けながら身近な川や森で自然体験活動をする会を立ち上げ、その後この大切な自然を楽しみ、残すためにしている遊ぶ・食べる・作る・笑う・歌う、そんなあの手この手も季節の自然の楽しみとともにお伝えし、出来れば一緒に自然の恵みを満喫したいと思っています。
私がこのブログとメルマガで発信している理由は、自然環境は自分たちの暮らしを支える大切な存在で、心の成長や安定に不可欠なものなのに、経済優先な社会では殆ど大切にされずに失われていっています。それに歯止めを掛けられるのは「自然が大切で楽しい!無くなると困る!!」って思ってる人がたくさんいること。そんな人をひとりでも増やしたいと切に思っているからです。
だって私たち生き物は自然から生まれてきたし、自然がなければ安全な水も空気も食べ物も得られない。私も心の不調から立ち直れず沈んで消え去っていたでしょう。
私たちは古来から、地球から共に生まれた生きものを食べ、腸や皮膚に大地と同じ菌を何十兆も棲まわせて暮らし、排泄したものも虫たちや微生物に分解してもらってきたんだから、大切にしたり調和して暮らしたりしないと、生きていけないものね。
この無くてはならない大切な自然を残していくためには、理屈だけではなく、五感で感じ、楽しみ、味わい、愛おしむ機会を多くの人がつくれたら良いと思っています。
そしてそんな風に思っている仲間たちと繋がって、素敵なコミュニティが広がっていけば嬉しいです。
まずは自己紹介をさせていただきますね。
私は昭和39年(1964年)北海道の釧路生まれの小樽育ち、その後稚内の中学校から函館の高校に進学しました。
小学校2年まで国道と鉄道の向こうが日本海、その後中学2年まで裏は山で、川や海もコンパクトに揃った土地で、まだテレビゲームも無く、放課後は草野球か裏山でスキー、虫や草木や星を友に、穏やかに過ごしました。
高校卒業後、これからは「食」が重要かなと軽く考えて農学部へ。しかし自然の魅力に引き戻されてワンダーフォーゲル部入部、そして林学科への進んで、卒論では渓流に入り浸って水生昆虫と防災工事の関係を調べました。自然の中で働けたらよいなぁと本気で思いましたが公務員試験に落ち、好景気の中、造園工事をする会社に就職しました。2~3年働いてお金を貯めて、田舎で半農半Xとか起業して暮らしたいと漠然と考えながら働き始めたものの、なんといきなりゴルフ場建設現場に入って、2年間飯場暮らし。心ならずも自然破壊にいそしみました(^^ゞ
仕事は造成されたコースに芝を生やして育成管理することでしたが、気の荒い土木の現場で、100人ほどの作業員を束ね、ゼネコン社員に怒られ、重機のオペレーターやダンプの運転手に舐められないようハッタリを学び、また自然の中で(自然を壊しながらも)働けて、おまけに「地図に残る仕事」というか、皆で力を合わせて困難を乗り越えてモノを作っていくのは、なかなか楽しく充実した体験でした。
ただ建設業は(天気に左右されることも一因ですが)忙し過ぎで、1ヶ月半連続勤務休み無しなんて普通で、今で言えば過労死ライン堂々突破、変なストレスはなくて健康でしたが、友達との呑み会も遊びも行けず、携帯もない時代ですから誘われなくなり、毎日の仕事も(今思えばそんなことはないのだけれど)学びの少ない現場仕事で、自分だけ取り残される気がしていました。
横浜に就職した彼女とは全く会えず、テレフォンカードをどれだけ使ったか分かりません(^_^;)
それでも山の中で、鳥や獣や雲や星が身近な暮らしは、とても素敵な時間でした。現場の動かし方、先輩達に可愛がられること、社会の仕組みについて、たくさん学んで成長したと思います。
その後都市に戻り、公園工事からアトリウムや屋上緑化など建築空間の緑化、結婚して子どもも生まれ、東京、岩手と転勤し、当時の妻の入院を期に札幌に戻って、自然植生復元の業務を進めることになりました。
1994年、東京勤務時代から心の不調が始まりました。パニック症で、最初は飛行機に乗れなくなり、当時労働組合の執行委員長をやってたので、月1回の執行委員会に本社のある札幌往復を毎回夜行列車で切り抜けました。年明けに阪神淡路大震災、3月の地下鉄サリン事件と相次いで、電車とくに地下鉄に乗るのが辛い毎日、初めて精神科の扉を叩きました。
1995年10月に、岩手県北上市に転勤して、満員電車から解放されましたが、パニック症状は時々訪れるので、沿岸部や他県への運転は、結構困りました。
諸事情あって札幌に転勤させてもらい、精神科クリニックで薬をもらって、なんとかんとか騙しだまし勤務を続けました。妻は長期に入院してすることになり、2人の幼い子どもと、折り合いの良くなかった実家に転がり込んで、当時2歳だった下の子を会社の近くの保育園に送り迎えしながら、毎日生きているのがやっと、21時には子ども達の寝かせ付けて夜中に目が覚め、
あぁ今日も生きていられた、でもこれからいったいどうなるんだろう…
と不安で辛い毎日を過ごし、せめて娘が20歳になるまで、騙しだましサラリーマンを続けていけたらなぁと本気で思いました。就職したときに夢見た田舎での半農半X生活はどこへやら。。。
10年ほどしてパニック発作も殆どなくなった40歳の夏、当時転がり込んでいた実家の近くを流れる川で、親子の自然体験をする団体「手稲さと川探検隊」を立ち上げて活動を始めました。いよいよ今に繋がる自然を体験してもらう人生のスタートです。
長くなりました。今日はこの辺で終わりにしたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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