「自己紹介」で書いているんだけど、実際に自然体験の市民団体「手稲さと川探検隊」を立ち上げるまでの、幼虫から蛹時代とでもいうか、そんな時期のことをさらっと書いてみました。
(写真は就職したての1987年頃だと思います。が、パーマ掛かってないから、いつかなぁ…)
私は昭和39年(1964年)北海道の釧路生まれの小樽育ち、その後稚内の中学校から函館の高校に進学しました。
小学校2年まで海に近い官舎(2軒長屋)で、国道5号渡って小さな崖を降りて函館本線の線路の向こうが日本海の磯、その後中学2年まで5階建ての官舎ですぐ裏が山、川や海もコンパクトに揃った地域で、まだテレビゲームも無く、放課後は草野球か裏山でスキー、虫や草木や星を友に、穏やかに過ごしました。北海道開発局に勤める港湾関係の技術屋で真面目で人付き合いが上手くない父と、派手な大工の祖父の大家族の末っ子で他人基準で激しい気性の母に育てられたひとりっ子で、ADHD気質なのに怒られ過ぎて大人しく、小さくて気弱で病弱な子どもでした(中3で転校するまで、背の順は1か2のチビでした)。小学生時代は天体にハマり、科学館に通い詰め、朝野球チームにも入っていましたが、6年生になってなんとかかんとかレギュラーでセカンドを守らせてもらいましたが、打席が来る前に元気で有望な4年生に交代させられることが多くて、グラウンドにいる虫の方が友達でしたね。中学に入る頃からは電機にハマり、毎日半田ゴテで拾ってきた電機製品を分解したり作ったり、海外の短波放送を聴くBCL(?)なんかにもハマってました。高校では、息が詰まりそうな実家を出て寮に入り、剣道部で身体も鍛え、文芸部でインチキ小説を書いたり、音楽部でフォークデュオ組んでギター弾いて下手な唄を歌ったりと楽しみつつ、社会のこと人生のこと将来のこと異性のこと、結論の出ないことを友とたくさん語りました(今思えば有意義だったことも、青すぎる議論も、赤面ものの内容も、すべて青春だったね)。
高校卒業後、これからは「食」が重要かなと軽く考えたフリして農学部へ。しかし自然の魅力に引き戻されてワンダーフォーゲル部入部、そして林学科への進んで、卒論では渓流に入り浸って水生昆虫と防災工事の関係を調べました。自然の中で働けたらよいなぁと本気で思いましたが公務員試験に落ち、好景気の中、造園工事をする会社に就職しました。2~3年働いてお金を貯めて、田舎で半農半Xとか起業して暮らしたいと漠然と考えながら働き始めたものの、なんといきなりゴルフ場建設現場に入って、2年間飯場暮らし。心ならずも自然破壊にいそしみました(^^ゞ
仕事は造成されたコースに芝を生やして育成管理することでしたが、気の荒い土木の現場で、100人ほどの作業員を束ね、ゼネコン社員に怒られ、重機のオペレーターやダンプの運転手に舐められないようハッタリを学び、また自然の中で(自然を壊しながらも)働けて、おまけに「地図に残る仕事」というか、皆で力を合わせて困難を乗り越えてモノを作っていくのは、なかなか楽しく充実した体験でした。
ただ建設業は(天気に左右されることも一因ですが)忙し過ぎで、1ヶ月半連続勤務休み無しなんて普通で、今で言えば過労死ライン堂々突破、変なストレスはなくて健康でしたが、友達との呑み会も遊びも行けず、携帯もない時代ですから誘われなくなり、毎日の仕事も(今思えばそんなことはないのだけれど)学びの少ない現場仕事で、自分だけ取り残される気がしていました。
横浜に就職した彼女とは全く会えず、テレフォンカードをどれだけ使ったか分かりません(^_^;)
それでも山の中で、鳥や獣や雲や星が身近な暮らしは、とても素敵な時間でした。現場の動かし方、先輩達に可愛がられること、社会の仕組みについて、たくさん学んで成長したと思います。
それでも殆ど休みのない毎日で(基本が月2回の日曜休みだけど、雨などでその日曜も休めないこと多し)何とか労働環境を改善したいと考えて労働組合の執行委員になり、その後結局執行委員長までやりました。やり甲斐もあり、社内に素晴らしいネットワークができて、その後のサラリーマン生活に活きましたが、ただでさえ忙しいのに、休みが全然なくなって、家族には申し訳なかったかな。
山中でのゴルフ場工事現場から都市に戻り、公園工事からアトリウムや屋上緑化など建築空間の緑化、結婚して子どもも生まれ、東京、岩手と転勤し、当時の妻の入院を期に札幌に戻って、自然植生復元の業務を進めることになりました。
1994年、東京勤務時代から心の不調が始まりました。パニック症で、最初は飛行機に乗れなくなり、当時労働組合の執行委員長をやってたので、月1回の執行委員会に本社のある札幌往復を毎回夜行列車で切り抜けました。年明けに阪神淡路大震災、3月の地下鉄サリン事件と相次いで、電車とくに地下鉄に乗るのが辛い毎日、初めて精神科の扉を叩きました。

1995年10月に、岩手県北上市に転勤して、満員電車から解放されましたが、パニック症状は時々訪れるので、沿岸部や他県への運転は、結構困りました。
諸事情あって札幌に転勤させてもらい、精神科クリニックで薬をもらって、なんとかんとか騙しだまし勤務を続けました。妻は長期に入院してすることになり、2人の幼い子どもと、折り合いの良くなかった実家に転がり込んで、当時2歳だった下の子を会社の近くの保育園に送り迎えしながら、毎日生きているのがやっと、21時には子ども達の寝かせ付けて夜中に目が覚め、
あぁ今日も生きていられた、でもこれからいったいどうなるんだろう…
と不安で辛い毎日を過ごし、せめて娘が20歳になるまで、騙しだましサラリーマンを続けていけたらなぁと本気で思いました。就職したときに夢見た田舎での半農半X生活はどこへやら。。。
10年ほどしてパニック発作も殆どなくなった40歳の夏、当時転がり込んでいた実家の近くを流れる川で、親子の自然体験をする団体「手稲さと川探検隊」を立ち上げて活動を始めました。いよいよ今に繋がる自然を体験してもらう人生のスタートです。(つづく)
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